Powered by Webサービス by Yahoo! JAPAN
一致するデータはありませんでした。
高松ホルモン おいで屋の料理や店内状況を写真でチェック。
かまくら 新橋店の料理、お得なコースメニューはこちらから。
花の舞 品川港南口店のクーポン印刷はこちら。花の舞 品川港南口店の店内状況や概観から雰囲気をチェックできます。
旬月に行くならここでクーポンゲット。アクセス情報もあるので事前にチェック。
鈴善に行くならここからクーポンをゲット。事前に料理メニューやドリンクを確認できます。
えん 吉祥寺店の詳細情報はこちら。フォトギャラリーでお店のイメージがわかりやすく掲載されています。
月の宴 阪急茨木市西口駅前店のクーポン。メニューやドリンク情報も載ってます。
日比谷松本楼に行く前にクーポンをゲット。ここから印刷できます。
シルクロード 中華 青山に行く前にクーポンをゲット。ここから印刷できます。
アバシ キュイジーヌ ABASHI CUISINEに行くならここからクーポンをゲット。事前に料理メニューやドリンクを確認できます。
Powered by 旅行のクチコミサイト フォートラベル
マカオから高速艇で中国は深センの蛇口に到着です。
蛇口の港では中小家電メーカの看板が掲げられています。
バスでちょこっと移動して、
中国民族文化村でナイトショーを見てきました。
民族村の食堂で夕食を取ったのですが、
ツアーでよくある飲み物だけ別料金ってやつで、
日本人向けの料金表に差し替えてました。
それも香港から来る日本人向けに、
全部香港$表示でした。
店を出るときに、入り口付近にあった
ローカル向けの料金表見たらほぼ10倍の差!
そんなもんですよね…
当時、どういうルールだったか覚えてないですが、
パスポートには中国への入出国記録は残っていません。
マカオ出国して、帰りは香港入国だけ。
パスポートをチラっと見せたような記憶が…
2010/09/02 07:09:12
<2007年1月31日(水)>
最終日となりました。ホテルでピックアップしてもらう時間が17時10分でしたから、今日も1日観光が出きます。それで、こちらへ着てからオプショナルツアーを申し込みました。公共交通機関がありませんから、ツアーを申し込んだ方が得策と考えたからです。
その結果が、トンレサップ湖クルージングと、プノンクロム遺跡観光を組み合せた午前中の半日観光でした。8時頃にホテルへ迎えに来てもらいました。初日、シェムリアップ空港まで迎えに来てくれた女性ガイドさんでした。
<プノンクロム遺跡見学へ、山登り>
泊まったホテルからプノンクロム遺跡までは、南方向への移動でした。シェリムアップを抜けるとすぐに田舎の風景になりました。どの家にも高い椰子の樹が植えられ、たわわに実が付いていました。
正確な時間は覚えていませんが、30分程でプノンクロム遺跡がある山の麓に到着しました。観光地としては整備されていなく、お土産店なども見当たりませんでした。世界遺産のアンコール遺跡群とは思えない、寂しい光景でした。見学には共通権が必要でしたが、世界遺産リストの遺跡には含まれて居ないようでした。
この遺跡見学は、一寸した山登りでした。最初が長い階段登りです。これだけでも結構骨が折れました。2日間の遺跡めぐりで、何度も階段を上り下りして、太腿が張っていましたので、尚更でした。
長い階段登りを終えた後は、山道になりました。登るごとに視野が開け、雨季にはトレンサップ湖の一部となる緑の平野が広がってきました。雨季には、樹林も水没するようです。
<プノンクロム遺跡>
山道を登り終えて、更に石段がありました。これを上りきったところに寺院がありました。これは遺跡の一部ではなく、新しいヒンドゥー教寺院のようでした。黄の衣を着たお坊さんも見掛けました。
ここで、プノンクロム遺跡の概要を紹介します。ガイドブック等のアンコール遺跡群のリストには載っていませんから、別の分類になるのかも知れません。「ウィキペディア」等を参照しながら説明します。
プノンクロム遺跡は、9世紀末から10世紀初めに建てられたヒンドゥー教の丘上式の寺院で、4方向に楼門があります。ラテライトに囲まれた中央に基壇の上に三つの祠堂があります。その祠堂にはヒンズー教の三大神であるヴィシュヌ神、シヴァ神とブラフマー神が祀られ、三神一体のヒンドゥー教の世界観を表しています。
プノンクロム遺跡は、訪れる人も少ないようです。境内は荒れ果てていました。最初は五つあった尖塔の内、残っているのは三つだけでした。その尖塔も無残な姿となっていました。この丘には、1990年代半ばまで、カンボジア国軍が駐屯していたようです。プノンクロムの丘は、昔から重要な軍事拠点であり続けたようですが、今はそうした面影もなくなっていました。
<トンレサップ湖へ>
先にトンレサップ湖について説明します。フリー百科事典の「ウィキペディア」等を参照しました。
トンレサップ湖は、東南アジア最大の湖であり、クメール語で、巨大な川(トンレ)と淡水湖(サップ)の意味があります。
雨季と乾季では、その広さが大幅に異なります。1年の内、殆んどの期間は推進が1mに留まり、面積は2700平方キロ程です。夏季のモンスーンの時期には、湖からプノンペン付近でメコン川に流れ込むトンレサップ川が逆流し、メコン川から周囲の土地と森を水浸しにしながら、面積は1万6000平方キロまで拡大して、深度も9mに達します。乾季の約4倍の広さです。形状はひょうたん形をしています。
因みに日本最大の琵琶湖は約670平方キロですから、乾季でもトンレサップ湖は琵琶湖の4倍の広さを持ちます。
プノンクロム遺跡からトンデサップ湖は間での道は悪路でした。雨季には湖底になる道ですから仕方が無いことです。
<トンレサップ湖・クルージング>
トンデサップ湖に繋がる水路の脇の悪路を暫く南下して、船着場に達しました。乾季には、この道の脇に市も立つそうです。今日は、その市を見ることは出来ませんでした。しかし、ビニル袋が散乱した一帯が、その場所である事を、現地ガイドさんが教えてくれました。
「ウィキペディア」を参照して、トンレサップ湖の特徴を説明します。
「体重100キロを上回るメコン大ナマズやフグなど600種類以上の淡水魚が生息します。トンレサップ水系で採れる魚は、カンボジア人のたんぱく質摂取量の実に60%を占める」ようです。もう少し説明を続けます。
「水が引くにつれ周囲に養分に富む堆積物を残すため、雨季以外には重要な農地が拓けます。浮き稲などが栽培されています。トンレサップ川が逆流することで、メコン川下流の洪水を防ぐ安全弁にもなっています」
と、その役割が述べられていました。更に、
「トンレサップ湖はインド亜大陸とアジア大陸の衝突によって引き起こされた地質学的な緊張による沈下のために形成された堰き止め湖」と、その創成期のことも紹介されていました。
さて、トレンサップこのクルージングですが、船がひしめき合った水路を抜けるのが大変でした。船がぶつかって、相手の船を押さないことには、水路が開けませんでした。万一、船縁に手を出したら、大怪我しそうでした。実際、手先が無い、現地のお子さんを見ました。
乾期には、沖を目指して家の引越しがあります。その風景も目撃しました。家だけではなく、学校からレストランまで、皆水の上でした。2万人程の水上生活者が、水の上で生まれ、そして亡くなられているようです。
<午後は市内散策>
夕方のピックアップの時間まで間がありましたから、午後は市内散策に出掛けました。その前にホテルのレストランで昼食を摂りました。部屋のチェックアウトは、出発時で良い事を確認していましたので、16時頃にホテルへ戻る予定としました。
ホテルを出て最初に向かったのが、昨晩も訪れたオールドマーケットです。日が高い時間は、昼寝の習慣があるようです。現地ガイドさんからも、この事をお聞きしました。川沿いの大樹の下ではバイクや三輪車を停めて、昼寝をする人達を見掛けました。 シェムリアップ川の睡蓮も昼寝の時間になっていました。
オールドマーケットも買い物客は疎らでした。何枚か写真を撮って次の目的地へ向かいました。野菜や果物が豊富に並んでいました。向かった先は、現地ガイドのペン・ホーさんが車の中で紹介していた「シェムリアップで一番綺麗な公園」です。
この公園の名前を現地で入手した地図やガイドブックを見ても、単に「広場」と記載され、名称が記載されていませんでした。ホテルからは北へ約1キロのシェムリアップ川の西側になります。
この公園は、車から見た通り、手入れが行き届いた綺麗な公園でした。噴水があり、季節の花を植え替える人が作業に余念がありませんでした。通りを挟んで、南隣に警察署があり、制服の人が行進の訓練をしていました。西側の建物からは、楽器の練習の音も聞こえてきました。日が高い時間ですから、街を歩いている人は僅かでした。やはり、昼寝の時間なのでしょうか。
<夕方、シェムリアップ空港へ>
予定通り、16時頃にホテルへ戻りました。チェックアウトを済ませて、早目にロビーで待つことにしました。サービスのミネラルウォーターを使っただけですから、精算はありませんでした。約束の時間まで、少し時間がありましたから、ロビーの横のレストランで、タイガー麦酒を飲みながら時間を潰しました。ピーナッツをツマミに出してくれました。
予定の時間に、ピックアップの車が着きました。顔を出されたのは、ペン・ホーさんとは別の男のガイドさんでした。その後、3箇所ほど別のホテルに立ち寄り、空港へ向かいました。
ところで、カンボジア入国にはビザが必要です。日本で取得して行くのが一般的ですが、空港での取得も可能です。後日のため、到着の時にその発行窓口も確認しておきました。その日の列は、大したことはありませんでしたが、時に長蛇の列となり、賄賂を強要される事もあるようです。
<スワンナ・プーム空港での乗換え>
シェムリアップ空港の出発は定時でした。すっかり日が落ちた19時40分です。往きと同じプロペラ機でした。今度も満席でした。韓国や中国、ヨーロッパからの観光客が多いようでした。
往きの乗換えの時には気付きませんでしたが、今回は2006年のプミポン国王の即位60周年記念行事の写真に、空港内のロビーでお目にかかりました。2005年のタイ王国旅行の際に、何度もお聞きした「来年がプミポン国王の即位60周年です。日本の天皇ご夫妻へも招待状が出されます」と言ったお話でした。
タイでは、この記念行事の時期を睨んで、無血クーデターが起き、タクシン首相が失脚しました。記念行事は無事終了し、プミポン国王夫妻の右側の列に、天皇ご夫妻が記念写真に写られていました。
プノンクロム遺跡で
岡に建つ遺跡を目指し山道を登りつ眺む乾季の平野
トンレサップ湖クルージング
水上に生る民の子船避て茶色の川に網を打おり
市内散策で
街路樹は歩道の石を持上て景色重なるタプロム遺跡
2010/08/28 05:08:20
旅さそう 月の光に 幾雲井
1998年9月、黄山に始めて登ったとき、いつかは黄山で、李白のように月を愛でながら、酒を飲まねばとの思いを漠然と持ちながら下山した。今年は10月3日が中秋節と聞くや、あの時の思いが、改めて沸いてきた。そして中秋節の前日の10月2日早朝、上海に向かった。安徽省黄山市には、上海から一日一便あり、その20時50分上海発FM9265の飛行機の席をやっとのことで確保したのだが、約10時間あまりを、上海で時間をつぶすことになった。
11時に上海に到着したので、空港からいつもの南京西路の梅龍鎮に向かい、少し早い昼食をゆっくりと取りながら、前から一度行きたいと思っていた、郊外の松江区にある映画村に行くことにした。1930年代の上海と、現在の上海を見ることの出来る撮影所兼テーマパークでもある。50元の入場料を支払い中に入り、しばらく歩くと、路面電車の軌道を見つけた。まずは懐かしき市内電車に乗り一巡し、今度は大馬路や夢の四馬路をぶらつき、外白渡を渡たり、石庫門里弄に入り、尖頂教会をバックに写真を撮ったり、公園をぶらついたり、街並みで実際に撮影しているところに出くわしたりしているうちに、1930年代の上海に、いつのまにか浸っていた。
20時少し過ぎに浦東空港に再び戻ってきた。飛行機の出発は少し遅れたが、ほぼ定刻の21時50分に黄山屯渓空港に到着。ホテルには、事前に迎えを頼んでいたので、空港を出るや、愛想の良い中年の運転手が声を掛けてきた。今年の10月1日から8日までは、建国60周年の記念すべき国慶節の休暇であるため、観光地は何処も満員だという話しを聞いていた。以前来た時は、寂しい田舎町であり、老街も寂れ、老人の漕ぐ人力三輪車に乗り、人通りの少なかった街をのんびり見学した。ホテルまでの道のりは僅かではあるが、今では、至るところにネオンが輝き、ライトアップもあり、ビルが目立つほどの華やかな街並みになっているのには驚かされた。
清代の繁華街、黄山市屯渓区の老街の入り口で下り、その脇にある5階建てのこじんまりとしたホテルに、小望月の夜、宿を求めた。その日は月が冴えていた。しかも明夜は十五夜である。『明日もこんなに晴れるのかな』と訊くと、『天気が変わりやすいのが、山のならい。しかし明夜も、お客様はきっと運の良いお方ですから、間違いなく晴れることでしょう』と,宿の女主人の愛想良き返事。
旅の初日でもあるのか、些か昂ぶる心を抑えながら、部屋で黄酒を飲み、夜景を眺めているうちに、妙に外に出て月の光を見たくなってきた。ホテルの横を流れる川に架かる老大橋に出てみた。この時間になると、ネオンやライトアップの光が、むしろ邪魔に感じ、ただ月の光だけの明るさを眺めて見たくなるのだ。人工の灯かりは、今の中国では何処でも見られる光景である。何処にでもある代わり映えのしない街並みでも、寂れた町に、草臥れて住んでいた人々にとっては、何か富みをもたらす光にでも見えるのだろうか。貧しさの度合いは当然にあるのだろうが、経済的な満足感が優先する社会の流れにあっては、自然遺産の街も、自然の歩みだけの生き方では、やはり満足できない現実なのだろう。
ひと思う 旅寝の床に 月の影(旧8月14日)
翌日、中秋節は、宿の女主人の言葉どおり快晴である。朝は、黄山に登るどのロープウェーも込み合うので、まずは古い村を見に行きましょうと、昨夜の運転手の誘いに乗り、金木犀の香に包まれながら、八卦の村といわれる呈坎古鎮に向かった。安徽省は、あちらこちらに古くからの古鎮があり、特にここイ県は、徽州古村落と呼ばれ、古色古香といわれる中国民家古代建築の宝庫である。呈坎古鎮もそのひとつで、黒瓦に漆喰の白壁、その独特の風格と精巧な窓枠彫刻で有名な徽州建築物群が、砦の中のように建て込み、その中を迷路のような細い道が縦横に走っている。生活をしている村の見学は、私生活を公開するという些か生々しい現実とぶつかるのである。お昼近くになったので、運転手が薦める街道沿いのレストランで、地元の野菜や山菜等を使った昼食をとり、黄山大門近くの黄山バスターミナルに向かった。以前はロープウェーの麓駅までタクシーで行くことが出来たのだが、近年、相当手前にバスステーションを作り、そこから先は、専用のバスのみ走らせるようになっていた。
黄山は、安徽省の南部に位置し、72の峰よりなり、蓮花峰、光明頂、天都峰の三大主峰を中心とした群峰の総称である。奇松、怪石、雲海、そして温泉(「冬雪」も含み、五絶とも言われる)が黄山の特徴と言われており、四季、天候、そして雲の変化に、一瞬ごとに山容が変わり,千姿百態を表し、生の水墨画そのものと言われる。
午後は、バスもロープウェーも確かに空いていた。雲谷寺から一気に雲谷新索道で白鵞嶺駅まで登り、そこから石畳を踏んで、今日の宿泊地である、北海地区にある獅林大酒店に向かった。名月の当日なのか、山の上は人でごった返していた。やがて以前泊まったことのある北海賓館が見えてきたが、その前の広場はテント村になっていた。実は国慶節休暇の影響で、山の上の物価は2倍強、普通ならば500元以下のホテルも、この日は1200元に跳ね上がっていた。若者たちはこのテント村で宿泊するのだ。
夕食前に、日の入りの茜色に染まる霞を見に行こうと、近くの峰まで出かけた。途中、黄山十銘松の一つである団結松があり、下は1本だが、上は4本に別れているが、お互いにしっかりと抱き合っているような松である。しかし、行き先の道を近くの人に尋ねたら、今からでは晩霞(夕焼け)には間に合わないと言われ、諦めてホテルに戻った。夕食後、月を見るため、再び外に出たのだが、隣の北海賓館前に広がるテント村では大勢の若者たちが騒いでいた。国旗を振る人の周りに集まり、国歌を合唱したり、歓声を上げながら、列を作り練り歩き、とても月を愛でる雰囲気ではない。仕方が無く、月を見るために、静かで、見晴らしの良い場所へ山道を少し登って行った。やがて樹々の切れる辺りに、嬉しとや待つ人ごとに思うらむ山の端出づる秋の夜の月、と西行が見た情景のような、月見る人の静かな群れに出くわした。
名月や 闇より出づる 嶺の影(旧8月15日)
山の朝は早い。午前5時少し前に起床、ホテルの裏手にある清涼台に向かった。闇の中を、懐中電灯で照らしながら歩き始めたが、既に上り坂は,厚手の防寒衣を着た人で満ちていた。見晴らしの良い場所は人々で溢れ、居場所を見つけるために更に上に向かった。押し合いながらも、やがて比較的見晴らしの良い場所を確保した。この日の日の出は5時58分、震えながら待つこと30分。ほのかな赤みに山影が浮き立ち、手前の松の枝も,墨絵のように浮かび上がってくる。喚声が上がる中、一筋のご来光が闇を走る。
朝の食堂は、早くも込み合っていたが、粥中心の朝食であるので、食べるのも早く、流れ作業のように処理されていった。今日は、雲海が素晴らしいといわれている排雲亭にまず向かい、そこから気象台がある光明頂を目指し、天海にある今日の宿泊先である白雲賓館に向かう。距離は6キロぐらいだが、道中はアップダウンが激しいと聞いていた。
テント村も、既に旅立ったのか、未だ疲れて寝ているのか、静まりかえっていた。その脇を通り、上り坂をゆっくりと登り始めた。黄山の山道は、石畳と石段であり、地道の山道を歩くことを考えれば、比較的歩き易い。しかし階段は一段あたりの高さが日本とは異なり、やや低く、その幅も僕の大足がはみ出るほどの大きさしかなく、とても躓き易いのである。アップダウンを繰り返しながら、やがて山道は2つに分かれ、右への上り坂を行くと、太平ロープウェーの乗り場にたどり着くが、僕はまっすぐの道をとり、雲海の見所のひとつである排雲亭に向かった。排雲亭は新しく開発された西海への入り口であり、そこから西海一帯を見下ろすことが出来る。肝心の雲海はと眺めれば、遥かに雲の細くたなびく景色であった。地元の人に聞くと、雲海は、晩秋から冬にかけてが素晴らしいようだ。しばらく休憩してから、光明頂に向かった。このコースは今日一番の難所、アップダウンの更に激しいコースである。息を切らして坂を登るや、絶壁が見える山際で暫し休憩、眩暈をするような恐怖を一瞬感じながら、その絶壁を覗き込む。そして今度は膝を庇いながらゆっくりと石段を下り、辺りの木陰で休憩。こうしたアップダウンを2,3度繰り返し、やっと登りつめた所からは、前が開け、はるか先にテレビ局の大きなアンテナと、その右手には気象台のアンテナ群が山の頂上に見える。光明頂である。ここからは平坦な道が、右に大きく弧を描き走っているが、その先の小山の頂に、突き出た細長い岩が見えるが、これが天から飛んできたという飛来石である。その飛来石の脇を通り、再び上り坂を登りきったところが、気象台のある光明頂である。ここで、少し休憩してから、南への下り坂を歩き、その日の宿泊先である白雲賓館に到着した。朝早かったので、チェックイン後、昼寝することとした。午後4時半ごろに昨日見逃した夕焼けを見るために、ホテルから南に向かい、架空の大亀の形をした岩山の鰲魚峰に向かった。風が強いところであるが、この峰から西は、低い山が連なり、遥か西の彼方へと広がっており、太陽は、まだ西の空にあった。しかし、既に写真を撮るために、見晴らしの良い場所には三脚が並んでいたが、その間に紛れ込み、晩霞(夕焼け)の時間を待つことにした。空は次第に茜色となり、それも段々暗くなってくると、あたりの景色も次第に狭くなり、その上寒さも手伝ってか、待つ間の、夕暮れの寂しさは言いようもないのである。太陽が山際にかかる頃になると、気がつかぬうちに、背後には大勢の人がいる。そして太陽が山影に完全に隠れるまでの8分余の晩霞を、息を殺して眺めていた。やがて、西の空は、茜色の輪郭を残し、闇に消えていくのである。ホテルに戻ろうと振り返り、東の空を眺めると、そこには、未だ白いままの十六夜の月が浮かんでいた。黄山は怪石の集まりであるので、日の入りの後に残された峰の影は、面白い弧のシュリエットを描くのである。
十六夜や おもしろおかし 峰の上(旧8月16日)
翌朝も早起きである。朝食をしっかりと取り、今回の旅行最大の目的地である西海大峡谷の一周に、午前6時半ホテルを出発した。まずは、昨日の最難関コースを逆戻りし、排雲亭に向かい、西海大峡谷入り口から西海に入った。まったく道無きところに、岩山の谷側に狭い桟道を造り、トンネルを掘り、道をつけ、岩を削り、階段をつける等の大工事だったようだ。最初は、些か浮かれながら写真を撮ったり、谷をのぞいたり、崖を見上げたりしていた。しかし見上げる景色が次第に増えてくるころには、峡谷の谷底を歩いていたのである。そしてその先には、上り階段が遥かに続くのである。上りは息が切れるが、下りは膝に負担が掛かり、膝が笑い始めるころには、階段を普通に下りることが出来なくなり、一段一段確認しながら下りる始末。一旦西海に入れば、突き抜けるか、来た道を戻るしかないと聞いていたが、ここまで来れば突き抜けるより仕方が無いと、極めて無様な格好で歩き続けた。幸いに、この先は、どちらかというと上り坂が多く、膝への負担は少しは軽くなるので、休憩を取りながら、次第に上へ上へと登ってきた。歩仙橋の表示を見たときは正直ほっとした。そしてここからホテルがある天海までは比較的なだらかである。午後1時少し前にホテルに戻ってきた。軽い昼食を取り、少し休憩後、下山し始めた。昨日晩霞を見た鰲魚峰と鰲魚洞を通り、玉塀ロープウェー乗り場に向かうが、狭い通路の鰲魚洞で渋滞となり、長い列が出来ていた。その後百歩雲梯の階段も渋滞し、蓮花亭辺りから、ロープウェーの乗り場までは、長い列が出来、遅々として列は前に動かない。結局午後6時近くになってやっとロープウェーに乗ることが出き、慈光閣駅に降りてきたが、辺りは既に暗くなっていた。
麓の温泉の町湯口のホテルまでバスで行き、来る時に乗ったタクシーの運転手が湯口のホテルで、約束どおり待っていてくれたので、乗り換え、空港に向かった。一日一便の上海便は、来る時に乗ってきた上海からの飛行機の帰り便にあたり、それで上海に戻ることになっていたのだが、飛行機は遅れ、結局上海には、翌日になって到着、南京路近くのホテルには、午前1時過ぎにチェックインすることになった。翌日は昼までホテルで寝ていたのだが、起き上がると体のあちこちが痛み、結局、終日ホテルで過ごすことにした。夜ホテルの窓から、南京東路を見ると、相変わらず人で溢れているのだ。ふと中空を見ると、ビルの谷間に見え隠れしている立待の月が、摩天楼に遮られ、オロオロと彷徨っているようにも見えるのだった。
立待や 居場所無きまま 魔都にあり(旧8月17日)
(完)
2010/08/25 11:08:30
人恋しい 日差し恋しや 冬の旅
ウイークデイの午後の便は、比較的空いており、いつもの通路側の15のCの席を確保、のんびりと上海に向かった。最近本屋で見つけた『堀田善衛上海日記 滬上天下1945』という本をこの旅の間に読み上げようと、持参していた。1945年8月敗戦後、上海にいた邦人が、敗戦国の民として、この上海でどのように生活していたか興味があり、早速読み始めたら、久しく会わなかった知人が声を掛けてきた。彼を隣の空席に座わらせ、最近の中国の景気や、彼の中国での仕事の話を聞いていたが、いずれも厳しい状況にあるようだ。
飛行機は定刻に到着、入国手続きも、珍しくスムースに終わり、荷物を受け取り、そこで知人と別れた。税関を過ぎ、入国出口前は、いつもよりは人出は少ないが、その中に、迎えに行くと言っていた黄さんを見つけ、正直ほっと一安心。空港からまっすぐ上海駅に行き、動車組列車に乗り、約30分余で蘇州に到着。蘇州駅の裏手では、北京上海間の新幹線工事(京滬快速火車)と、上海南京間の高速鉄道(滬寧際鉄路)の工事が同時に始まり、取り壊しや、整地などが進んでいる。街は夕方のラッシュに入り、道路も込み始めている。観前街は、相変わらず結構な人出である。景気が後退しているとは言え、人出は多く、それだけでも何やら活気が見られる。商店街はバーゲン中であろうか、ショウウィンドに貼られている割引のチラシを見ると、ほとんどが“6折”や“5折”となっており、中には、“1折”まで見られる。つまり、1掛け、すなわち9割引と言うことになり、これでは投売りの状態である。中国でも、この不況で庶民の財布の紐は、一段と固くなっているのだろう。商店街を通り抜け、路地に入ると、劇場のスピーカーから“評弾”の引き語りが流れてきたが、ああ、又江南に来たのだと、気分も盛り上がり、その調子に合わせながら、ホテルへと向かった。
この観前街から程近いところに、小黄の奥さんのご両親が住んでおり、夕方、小黄がホテルに迎えに来てくれ、実家に案内された。早速、お母さんの手料理による江南地方の家庭料理を振舞っていただくこととなった。冷菜5品、そして蒸し魚の『清蒸桂魚』が出され、その間、勧め上手なお父さんが、盛んに“来、来、来”と言いながら老酒を注がれるのである。つい日本の習慣で“乾杯“と言うと、グラスに残った酒を見て、飲み干してないではないかと言いながら、又注がれるのである。
やがて今日のメイン料理が運ばれる。“塩醤蟹”、一般には“面○蟹”〈○は手偏に施工の施の旁)と呼ばれている上海蟹の家庭料理である。まず上海蟹を背中から二つに切り、その切り口に小麦粉をたっぷり付けて、フライパンに油を引き、その切り口の小麦粉が黄金色になるまで炒める。老酒、生姜、塩、醤油、それに砂糖少々を加え、水を入れて15分ほど煮込む。残った小麦粉を水で溶き、それを加えて、更に煮込む。水気が少なくなり、蟹に小麦粉の膜が着き始めてきたら、刻みねぎを入れて出来上がりである。手などが汚れるし、蟹のエキスが滲みこんだ小麦粉を、蟹肉と一緒にずるずると食べるのであるから、レストラン料理とはならず、嘗めたり、ズルズルさせながら、親しいもの同士で食べる、楽しい家庭料理である。
翌日は、穏やかな小春日和であった。タクシーで陽澄湖に向かう。陽澄湖は行政上は蘇州市であるが、蘇州市の直轄部分と、蘇州市の行政下にある昆山市に属する部分とに分かれている。まず蘇州の工業園区を通り、国道を走ること30分、大きな湖が見えてくる。しばらく湖岸を走るが、ホテルや、ゴルフ場、お寺などが散在するが、この地区は蘇州市直轄の陽澄湖である。今も湖畔は整備されつつあるが、確かに聊か寂しい湖岸である。蟹の養殖場とか、レストランは昆山地区の巴城鎮に多く集まっていると聞き、約17キロ、湖岸に沿って走る。次第に道路沿いにレストランが立ち並ぶ風景が見えてくる。そのあたりはやや湖から遠ざかり、水路などに沿って、舟形のレストランなどが見える。やがて賑やかな路上の市場を過ぎると、両側にレストランが立ち並ぶ大通りとなり、更に進むと、突き当たりに、蟹の大きなモニュメントのある公園に行き当たる。陽澄湖水上公園である。そこで車を降り、この公園に入る。公園内を10分ほど歩くと、陽澄湖の湖畔に再び接することができる。湖畔に沿って、散策道がある。それを辿って行くと、目の前に小さな島が見える。島には橋が架かっており、洋館風の、2階建ての建物が2棟建っている。橋を渡り、小島に入ると、高級車が5,6台停まっており、建物の中で食事をしている人の顔をが見えた。間もなく正午、急にお腹が空いてきたので、中に入っていった。しかしここはどうやら会員制の場所であるらしく、入室を断られたのである。こうした風光明媚な小島を占有できる人たちとは、社会主義の国ではどのような人たちなのだろうか。やはり、不思議な国の不思議な仕組みがあるのだろう。
水上公園の前から東に上る大禹路沿いのレストラン街に向かったが、そこには同じような、しかも店の名前には必ず“蟹”が入ったレストランが多く並んでいる。店の前に車が多く駐車しており、ガラス越しに見える店の中が賑やかそうな店を選び入った。『品蟹楼』という名のレストランである。個室に入り、まずは燗をした老酒を注文したら、ヤカンに入れて出してきた。それを呑みながら待つこと30余分、今度は、注文したものが一気に出された。この国で、時に戸惑うのは、客への配慮より、己の都合でことが運ばれるということである。散々待たした挙句、皿に載せれば出せる冷菜と、聊か手が掛かる温かい料理が,同時に出されてくるのだ。しかも、しかもである。スープは味が無い白湯であり、蟹粉豆腐は塩の塊が入っており、塩辛くて食べれない。その値段が上海の老舗上海老飯店の55元よりも10元も高いのだ。これに一々腹を立てていては中国旅行は出来ない 。我慢である。食後は、散歩がてら蟹の養殖場が並ぶあたりを歩いて見に行った。冷やかしで入った店で、結局、蟹を買ってしまったのだ 。帰りはタクシーが拾えず、バス停付近で闇タクを探し、蘇州のホテルまで、100元で戻ってきた。
その日の夕方、午後5時ごろに、小黄の家を訪問した。入り口にはガードマンがおり、中に入る人をチェックしている。この中には5棟の建物があり、小黄邸は、A棟の一階にあった。床面積は146.44㎡、共有面積の持分が12㎡であり、間取りは、いわゆる3LDKプラス書斎または、ユティリティに利用できる小部屋、である。購入価格は、スケルトンで、およそ80万元。内装工事は友人に依頼し、しかもフローリングや、内壁や天井に使うビニールクロス、電線などの資材の一部を、別途購入して現物支給したので、内装費は破格の6万元ぐらいで収まったようである。その他、家電、家具、備品などを含めても、約20余万元であるから、購入総額はおよそ100万元だったようだ。購入資金の捻出は、今まで住んでいた家を42万元で売却、会社での住宅積立金(住宅公積金)が夫婦で12万元、両親と叔父さんから30万元、妹から20万元ほど借りている。親戚兄弟からの借り入れは、無利息で、期限の定めがないようであるが、既に叔父さんからの借り入れは返済したようである。いわゆる親戚間の結束が、中国では未だ強いのである。
取引に際して、不動産取引税(地契税)は2%(現在は1.5%に引き下げられている)、144㎡超の部屋は5%の消費税?が必要である。その他印紙税や登記手数料などが必要である。管理費は、専用延床1㎡当たり月額1元、駐車場は、地下の駐車場の使用権は8万元、敷地内の地上青空駐車場は、月額使用料は150元から200元である。修繕積立金は、購入時に一時金で支払うとの説明があったような気がするが、もうひとつ良くは理解できなかった。早速、新しい家の隅々まで見せてもらう(写真参照)。
中国のサラリーマンの住宅事情について、小黄に聞いてみた。結婚後、会社の社宅に住むことになり、その後、子供が出来、少しい大き目の社宅に移転、子供の成長に伴い、更に大きな社宅に引越した。1998年に個人の住宅持ち家制度の施行により、住んでいる社宅を、会社から購入することが出来、21,000元で購入した。購入資金は、個人と会社が半々ずつ出して積み立ててきた住宅公積金が3,000元あったので、実際に支払った現金は18,000元であったそうだ。その後の景気の上昇による、不動産ブームで、それが20倍、30倍で売れ、それを元手とした住宅の買い替え需要が増加し、いわゆるマンションブームがこの3、4年続いて来た。しかしこの不況で、不動産価格が暴落し始めたと言われ、しかも上海株式の暴落で、親戚間の金銭の貸し借りの清算が、躓き始めているようで、中国の家族関係にまで、今後影響が出るのではと危惧している。
色直し 皿に雌雄の 上海蟹
やがて、ダイニングの食卓には、11種類の冷菜が並べられ、乾杯で食事が始まる。僕の好きな老酒、石庫門黒標が用意されており、その心遣いがとても嬉しかった。話題は、最近の景気や、仕事のことから始まり、カナダ留学中の娘さんの話に至ると、酔いも手伝ったのか、次第に一家は蘇州弁となり、嬉しそうな話し振りになるのだが、僕にはまったく理解できなくなるのだ。この娘さんが四川省の成都の大学に在学していた時、僕は、黄龍・九寨溝の帰りに、彼女の大学を尋ねたことがある。そして許可を得て、男子禁制の女子寮の部屋に入れてもらったのである。あれは、もう何年前のことだったのか。酔いの勢いで、今度はカナダの彼女の大学の女子寮に、彼女がドクターの学位をとる時に、一緒に行きましょうと提案しておいた。
やがて、生きている時は長江の水のような色をしているが、蒸されると鮮やかな朱色に変わる大閘蟹(上海蟹)が、ボウルに山盛りに載せられて出されてきた。それまで賑やかだったが、蟹が運ばれ、食べ始めるや、場は次第に静かになっていく。雄をやっとのことで平らげたが、更に一匹勧められ、黙々と挑戦。そして、今度は雌が運ばれてたので、引き続き僕は沈黙のまま、雌の解体に入った。テーブルは、いつの間にか、無残にも、蟹の甲羅や肢のガラが山となっているのである。上海蟹が据え膳で食べられるならばよいなあと、不器用な僕はいつも思うのだが、苦労して食べるからこそ美味しいのかもしれない。甲羅に、老酒をいれて飲んでみる。よい味である。まさに至福のひと時である。やがてお開き、奥さんの弟さんの車でホテルに送ってもらう。
翌日は、上海に戻り、12時半ごろから、いつものように上海老飯店でゆっくりと昼食をとる。昼間のお酒は酔いが回り易く、聊かのご機嫌で、空港に向かい、夕方の便で帰国する。今回の中国滞在時間は、僅か50時間であった。(第52回)
2010/08/25 11:08:33
一人行く 旅の中空 蜀葵(からあおい)
夜の徒然に,立松和平著『道元禅師』上下2巻を読み終わるや、当然の如く、早速道元の入宋を辿らねばという思いに駆られ、新たな“わが中国の旅”の準備が始まった。
24歳の道元禅師が、師事していた建仁寺の明全和尚と一緒に、博多津より中国明州慶元府(現在の浙江省寧波市)を目指し、日本の商船で旅立ったのは、1223年3月下旬のことである。当時の入宋コースも、これまでに多くの遣唐使船が辿ったコースとほぼ同じで、まずは、船は五島列島を通過するや、東シナ海を一気に横切り,泥で濁る長江河口を目指し進んで行く。雨や風に晒され、波に揉まれながらも、揚子江河口から大陸を望みながら、陸に沿って、更に西に向かい、杭州湾を横切り、その先にある甬江(ようこう)河口で、潮待ちをし、満潮に乗り一気に甬江を上り、寧波の三江口の波止場に着いたのは、明確な記録はないが、国を出ておそらく十余日目であったろう。寧波(ニンポー)の三江口は、名前の通り、甬江、奉化江,そして余姚江の三川が合流する地点にある内港と言うか、河港である。道元のこの旅は、正師を求める、つまり仏祖釈迦との命脈を連ねるための旅であったが、三江口到着早々、道元は、僧侶としての資格不足を問われ、上陸することができなくなり,止む得ず船での生活をしばらく続けることになった。
この河港での滞在中、道元に大きな影響を与えた出来事があり、後に道元は、『典座(てんぞ)教訓』の中で、この時のエピソードを語っている。港で上陸許可を待っていたある日、名刹阿育王山広利寺の典座(寺の食事係の僧)の老僧が、端午節の行事のための食事に使う椎茸を、日本商船を探し、彼が乗っている船に買いに来た。この老僧と仏法の話がしたかった道元は、早速応対し,今日は此処にお泊りになりませんかと誘うのだが、老僧は食事の仕度をしなければならないと言って、それを固く断るのである。道元は、『貴方のような徳のありそうな老僧が、坐禅や仏法の議論よりも,食事の仕度を優先させるのは、そこに何か良いことがあるのですか』と、執拗に尋ねると、老僧は笑いながら,『日本の若いお方よ、貴方は修行が何であるかがまだお分かりではないようですね』と言い残して、寺へと戻って行きました。その後、この老僧とは、道元が修行している天童寺に尋ねて来てくれた時と、この老僧が故郷の四川省に帰ることを知り、道元が、この老僧のいる阿育王寺を尋ね、別れの挨拶に行った時の、都合2回会っただけである。しかし、後に道元は、『あえて文字を知り、弁道を了するは、すなわち彼の典座の大恩なり』と述べている。
上陸を許された道元は、まずは、明全和尚が先に入山している臨済宗の天童山景徳寺に入るが、その後、現在の浙江省内を、正師を求め、五山十刹と言われる大寺院を順次遍歴するのである。
道元の半月余の生命を賭けた入宋に比べると、僕は日本を、午前9時に飛び立ち、10時半(現地時間)上海浦東空港着、リニアーモーターカーと地下鉄に乗り換え、11時50分に上海南駅に到着、駅近くの長距離バスターミナルを12時50分に出発する寧波行きの長途汽車(長距離バス)の席を確保し、高速道路を走り、最近開通した杭州湾に掛かる約40キロの寧波杭州湾大橋を渡り、寧波汽車南駅(長距離バス停)に15時半に到着した。そこから徒歩3分にあるホテルにチェックイン後、37度の気温に、しばしの休憩をとる。17時ごろにタクシーで、奉化江、甬江、余姚江の交わる三江口を目指し、奉化江に掛かる江厦橋に立ったのが、17時10分(現地時間)頃であるから、国を出て、9時間余で目的地三江口に着くことができたのである。橋の上から眺めると目の前には、3つの河の交わるパノラマが広がり、早速道元さんが上陸した地点を探し始める。800年前の道元さんが上陸した時とは、河の流れも、川幅も、周りの風景もすっかり変わってしまっているのは当然ではあるが、この地区は、老外灘として整備されつつあるので、今では、5年前に来た時の状況さえも思い出すことが難しいほどの変化が見られる。左手の堤防付近は公園として整備されており、その中に、些か異形であるが、遠目にも石碑ではと思われるようなものが見え、急いで下りて行った。木々に囲まれたあたりに石碑があり、石碑の表側に回ると、“道元禅師入宋記念碑”と刻んだ文字が、眼に入ってきた。
その前にあるベンチにしばし座り、道元が正師を求め遍歴したお寺のうち、5年前に訪れたことのある天童寺、阿育王寺、そして天台山国清寺での、道元さんの”只管打坐”の日々を、いつの間にか想像していた。いつもの事ながら、方向の定まらない僕の思いは、今度は、永平寺の回廊を上り下りするたびに、その原型となった正師如浄和尚に出会った天童寺の廻廊に思いが巡り、若き修行の日々を思い出しては、自らを更に律したであろう道元の凄さに感嘆しながらも、この地と、遠き越前の永平寺との摩訶不思議な繋がりを、なぜか、とても面白く感じ、やがて嬉しくなってくるのである。異邦人であろうとも快く迎える大らかさと、命を懸けても真実を極めようとする健気さと謙虚さが,嘗ては日中の間に確実にあったのだと思わざるを得ない。その大らかさと健気さ、そして謙虚さは、今はどうなっているのだろうか。日中を思いながら、この大陸を旅する時の、常なる僕の思いでもあるのだ。
翌日、河姆渡遺跡に向かうため、前日到着した寧波南駅から、旧式の中型バスに乗り込んだまではよかったのだが、路上に出るやまずはエンスト。エアコンが切れると、体中の汗が一気に出始める。運転手は、特に慌てる風情もなく、手馴れた感じで、修理し始め、2、30分後に再び動き始めた。農村から山道に掛かるあたりで又故障、今度は10分ぐらいで修理完了。やがてT字型に交差する山道で、降ろされ、“この坂道をまっすぐ下りて行きなさい”と、車掌に言われるまま坂を下りていくと、まずは両側には建築途中で投げ出されたかのような建物が数棟建っており、その間を更に通り過ぎ、下っていくと、やがて川淵に突き当たる。その脇の小さな空き地の木陰に、年配の男女が座っており、私にそこに座るよう席を空けてくれた。向こう岸に渡る舟は間もなく出ると言いながら、私のことは何も聞かず、このあたりのことを、ぼつぼつと説明をしてくれるのである。その話から、目の前の川は姚江で、その対岸までの渡し舟があり、この渡しが、”河姆の渡”で、向こう岸に広がるのが河姆渡遺跡だということが分かってきた。対岸を眺めると、写真で見たことのある河姆渡遺跡の石碑が見え、実は、それでほっとしたのである。時間が来たのか、男は立ち上がり、小舟の準備をし始め、女は、自分の自転車の荷台に僕の荷物を載せるや、そのまま小舟に乗り込んで行くので、僕も続いて乗り込んだ。日差しの強い中、艪を漕ぐ音に些かの涼を感じながら、向こう岸には4,5分で到着した。丁度お昼であったので、遺跡見学の前に、舟着き場の前にある飯店に入り、昼食を取ることにした。河姆渡遺跡の真っ只中での野生料理の昼食である。
夏草や 河姆渡5元の 渡し舟
僕が河姆渡遺跡に興味を持ったのは、単に古代ロマンへの憧れに過ぎないのだ。稲は長江中流の遺跡で、9000年前の稲が炭化したものが発見されているが、陸稲だと言われている。ここ河姆渡遺跡では、7000年前の炭化した稲が発見されている。日本に水田の稲作技術が入ってきたのは2300年前だと聞いたことがある。この河姆渡に立つと、極めて単純な発想だが、当時の状況から見て、“稲作技術を持って、日本に渡ることのできる中国大陸の地域は、極めて限られてくるのではないか。河姆渡遺跡の民には、水田技術があり、しかも海での漁業もしており、その海に出て海流に乗れば、九州には2日間で着いたと言う実際の漂流者の話もあることからも、この地から日本への移住は極めて可能性が高いのだ”との思いが沸いてきた。長江文化圏の下流で平和に過ごしていた河姆渡の民が、天候の不順による食糧難から南下してきた黄河文化圏の勢力に追われ、大挙して海に逃れ、潮に導かれて日本に流れ着くと想像するのも面白いのではと考えたのである。太湖の辺りにいた倭人が、村長の娘卑弥呼の予知能力を頼りに、後漢の騒乱期に、一族で九州に逃れてくる小説を、昔読んだことがある。その影響もあるかもしれないが、わが思い込みは、極めて可能性のある渡来物語だと、この河姆渡に立ち、改めて確信を得たのである。
河姆渡遺跡は、杭州湾に面する余姚市にあるが、その北隣に、魯迅や秋瑾女史の故郷であり、紹興酒でも有名な紹興市がある。紹興市は、12年前に、魯迅の故郷も見たくて、一度来たことがある。しかし町は大きく変わり、経済的にも大きく成長しているように見受けられる。翌日、この呉越は越国の古都を見学するには、輪タク(人力三輪車)に乗り、のんびりと廻るのが相応しいとばかり、早速、輪タクの親方と値段の交渉をし、輪タクで颯爽?と出発した。まずは秋瑾女史が処刑された軒亭口に向かい、秋瑾烈士記念碑と白玉の立像の前で写真を撮り、周恩来祖居、そして拡充整備されつつある魯迅文化広場を見学し、その後は、繁華街を横切り、越の古城の越王台に向かう。僕がこの街で一番の楽しみにしていたのは、何と言っても、特別においしい紹興酒を呑むことである。その夜は、口当たりは仄かな甘口、余韻に酸味を微かに残しながらの喉越しの感触を楽しみ、如何なる料理とも張り合わず、殺さず、控えめで、まろやかな”十年陳稽山清”をゆっくりと飲みつつ、魯迅の愛した紹興料理を堪能したのである。
今回の旅行では、これまでの中国旅行でお世話になった人々を招待しようという計画を立てていた。今では、上海から蘇州まで在来新幹線(中国では、”動車組列車”と呼ばれているが、日本の新幹線車両と同系統である)で、30分ぐらいで行くことができる。そこで、場所は、魚米の里の蘇州で、今人気ナンバーワンだと言われている飯店は、獅子林と拙政園の中間に位置する蘇州民族博物館の裏手に当たる『呉門人家』(蘇州は嘗ては呉の国である)と聞いたので、早速この飯店を予約した。当日、9人の人が参加してくれ、和気藹々の時を楽しむことができた。お酒は、もちろんわが愛する名老酒”石庫門黒標“である。
当日注文した主な料理は、『刺毛?筒』(?の字は、魚偏に、旁は善で、田うなぎのこと)『瓜姜桂魚糸』『八宝鴨』『黄?河鰻』(?の字は、火偏に、旁は悶で、ぴったりと蓋を閉め、とろ火で煮込む料理方法)であるが、土用の丑の日は過ぎていたが、夏バテ対策のため、特に、田鰻料理の『刺毛?筒』と、日本の鰻と同種類の鰻料理である『黄?河鰻』を注文したのだ。 (第50回)
表紙写真:寧波市三口江にある道元禅師の入宋記念碑
2010/08/25 11:08:34